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カラハン朝

カラハン朝は、中央アジアにあったテュルク系イスラム王朝(9世紀中頃 - 1212年)。テュルク系民族として最初にイスラム教へ集団的に改宗し、中央アジアのテュルク化・イスラム化に大きな役割を果たした。イリグ・ハン朝ともいう。

カラハン朝あるいはイリグ・ハン朝の名は歴史家による便宜的な呼称であり、同時代のアラビア語、ペルシア語などではハーカーン朝(??????? Khakānīya)として記録されていた。カラハン、イリグ・ハン、ハーカーニーヤとも、この王朝の君主が突厥と同じテュルク系君主の王号である可汗(ペルシア語でハーカーンあるいはハーン)を用いたことによる。歴代の君主は「力の強い」ことを意味するカラをつけたカラ・ハン(Qara Khan)、「威霊ある」ことを意味するイリグをつけたイリグ・ハン(Ilig Khan)といった王号を称した。

歴史 [編集]
カラハン朝の起源と初期の歴史については不明なところが多い。840年にモンゴル高原を支配するウイグルの遊牧国家が崩壊した後、アルタイ山脈の西、天山山脈の北、バルハシ湖の南の草原地帯で自らの王国を形成したと考えられている。国家の母体は、それ以前からこの地方で遊牧していたカルルクの部族連合が興したとする説が有力である。

10世紀の前半頃、伝説上の初代ハンの孫サトゥク・ボグラ・ハンがサーマーン朝の影響を受けてイスラム教に改宗し、異教徒であった伯父を倒してカシュガルからベラサグンにかけてのイスラム王国を築いたとされる。しかし、サトゥク・ボグラ・ハンの改宗とその事績についても同時代の記録がないため、伝説としての色彩が濃い。

イスラム側の史料によればカラハン朝は、960年に帳幕(ユルト)20万帳にのぼる遊牧民たちのイスラム教への集団改宗を行ったとされる。これ以後のカラハン朝はジハード(聖戦)を掲げ、タリム盆地の仏教国ホータンやクチャを征服する一方、西にも拡大して999年にブハラを征服し、サーマーン朝を滅ぼしてマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を併合した。しかし、1008年にはホラーサーンのガズナ朝に敗れ、アム川以西へは進出できなかった。

現在の新疆ウイグル自治区西部からウズベキスタンに至る広大な領域を支配するようになったカラハン朝では、征服されたタリム盆地やマーワラーアンナフルのオアシス都市にテュルク系ムスリム(イスラム教徒)たちが入り込み、徐々に遊牧生活をやめ都市へ定住していった。同じ頃、カラハン朝との境となる天山山脈の東側にはウイグルの残存勢力による天山ウイグル王国が形成され、同じように定住化に向かったので、この二つのテュルク系国家のもとでこれらの地域のテュルク化が進んでいった。また更に、ホータン、カシュガルなどタミル盆地の西部もカラハン朝のもとでイスラム化していった。後にこれらの地が「トルキスタン」(「テュルク人の土地」を意味する)と呼ばれるに至る契機となった。

もともと遊牧民の部族制を基盤に成立したと考えられるカラハン朝は分権的性格が強かったと考えられ、可汗を名乗る君主が複数あったことが貨幣の研究から明らかになっている。彼らは内紛から1041年に決定的に東西に分裂し、スィル川とパミール高原を境に西カラハン朝と東カラハン朝にわかれた。

その後、定住化が進んで軍事力を弱体化させていた東西のカラハン朝は、同じ11世紀にマーワラーアンナフルの西で興ったセルジューク朝に打ち破られ、1089年に西カラハン朝はセルジューク朝のホラーサーン政権に服属した。さらに12世紀初頭には耶律大石を指導者とする集団が中央アジアにあらわれ、カラハン朝発祥の草原地帯に入ってカラキタイ(西遼)を建国した。東西のカラハン朝はカラキタイの圧迫を受け、いずれもカラキタイに服属した。

1131年にカラキタイと戦って敗れた東カラハン朝はカシュガルのオアシスをわずかに支配する小国となり、1211年になってカラキタイを乗っ取ったナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。西カラハン朝はサマルカンドを中心にマーワラーアンナフルを支配するカラキタイの属国として命脈を保ったが、13世紀初頭にホラズム・シャー朝がカラキタイを破ってマーワラーアンナフルを占領すると、ホラズム・シャー朝にサマルカンドを追われて完全に滅ぼされた。

文化 [編集]
カラハン朝の成立は、中央アジアのテュルク化の契機として中央アジアの歴史上非常に重要視されている。カラハン朝の時代以降、中央アジアの定住民の多くはもともと話していた東イラン諸語などインド・ヨーロッパ語族の言語にかわってテュルク諸語に属する言葉を母語とするようになり、特にシルダリヤ川以東の地域は「トルキスタン」と呼ばれるようになった。また後の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)にあたるタリム盆地とその周辺域のイスラム化に関しても大きな役割を果たした。最初に改宗を行った伝説的な君主サトゥク・ボグラ・ハンはトルキスタンの各地で聖者とみなされ、現在にいたるまで深く尊崇されている。

イスラム化とマーワラーアンナフルの征服を通してサーマーン朝でアラブ・イスラム文化とペルシア文化が結びついて成熟したペルシア・イスラム文化が流入しすぐれた都市文化が栄え、イラン・中央アジア各地に定着した。さらに「カラハン朝トルコ語」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれて、テュルク・イスラム文化と呼ぶべき独自の文化を誕生させた。その精華として広く知られるのが、11世紀にはカシュガルの宮廷に仕える侍従ユースフ(ユースフ・ハーッス・ハージブ)があらわしたカラハン朝トルコ語による韻文作品『クタドゥグ・ビリグ』である。また、カシュガル生まれのカラハン朝の王族マフムード・カーシュガリーは内紛を避けてアッバース朝に逃れ、バグダードでセルジューク朝が権力を確立して間も無い時期(1077年ないし1081年)に中央ユーラシア各地の様々なテュルク諸語の語彙を集めた『トルコ語辞典(ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク)』を編纂しこれをアッバース朝カリフ・ムクタディーに献呈したが、これは当時のテュルク系民族の言語や生活ぶりを伝える重要な資料となっている。

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2009年04月13日 08:24に投稿されたエントリーのページです。

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